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シュテルンビルト全体を恐怖と絶望が包み込んだ事件から1週間――― ただの同僚だ。職場の仲間だ。ちょっと、たまに、気が向いた時だけ退勤後に食事に行ったり、飲みに行ったりする程度の仲だ。 顔を合わせれば下らないことで言い合い、だがこちらの知識と腕、相手の能力への信頼は揺るぎないものであったことはは自信を持って言える。 裏方で在り続けるメカニックと企業名を背負ってスポットライトを浴び続けるヒーロー。本当に、本当にただそれだけの関係だ。 そんな程度の仲でどの面下げて見舞いになど行けばいいというのか。 途中の廊下で折紙サイクロン、もといイワンに会った。 ヒーロースーツを着ていない姿で会うことの方に違和感を感じている己に苦笑をしてしまう。は点滴の管の伸びる腕の細さと白さに目を奪われながらも、二言三言会話を交わし、最後に彼は、「バーナビーさんでしたら、この廊下のつき当たりの左の部屋ですよ」そう言って、お馴染みの困ったような照れたような何とも言えぬ笑顔を置いて彼女の元を去った。 ああ矢張り彼はマスクなどしていない方が人間味があっていい。遠ざかっていく点滴台の軽快な音とは反比例してどんどん重たくなっていく自分の足を先程伝えられた部屋へと向ける。行きたいのに行けない。動かしたいのに思うように動かない。気分としてはまるで司法局へ弊社の破壊屋の被害状況の報告会へと参加する時と同じであった。 「…」 「お久しぶりですね」 「バ、バーナビー…」 怯んでいても仕方がない。そう考えたは目的の部屋へ入るとノックの返事も待たずにドアを開け放ち、そして白いカーテンを勢い良く引いた。 入った際の勢いの割に、発した声は酷く震えていた。頭の中で描いていた最悪の風景を掻き消すような声と様子によって安堵感でよろけた体を支えるために縋るようにカーテンを握った手が若干震えていることに、は頭のどこかで客観視しながら笑う。 「何ですか、そんな間抜けな顔して、」 早くカーテン、閉めて下さい。そう言いながら手にしていた雑誌を枕元へと移動しながらバーナビーはへ見慣れた表情で告げる。 いつも何だかんだと彼女のことを小突く手には白い包帯が巻かれていた。縫いつけられたようにそこから視線を外せずにいると、「大袈裟なだけですよ、大したことありません」とバーナビーは言い、反対の手で手の甲をポンと軽く叩いてみた。 あの日が、つい数日前だとは思えぬほどに遠く感じてしまう。でも確かにこの街全体を恐怖が支配していた時は存在していたのだ。 いつ死ぬかも知れぬという焦燥感、もう生きられぬかも知れぬという絶望感とそれまでヒーローへと寄せていた信頼感の崩壊。 そんな市民を街を見て、彼女は声を大にして叫びたかった。 「あの人たちだって頑張ってるのに!」 「何も知れない癖に!」 「私の大切な仲間を!」 「守られてるだけのあなた達は何も!何も分かってない癖に!」 ―――ねぇ、それって自分もなんじゃない? テレビに映ったバーナビーがジェイクに甚振られているシーンを目にした瞬間、誰かがの耳元で囁いた気がした。 次の瞬間、込み上げる吐き気と恐怖感に彼女はそのまま部屋から飛び出し、トイレへ駆け込む。自分の中に浮かんだ不快感と認めなくない感情を出しきってしまいたかった。流れる水音とともにドロドロとした感情も何もかも流してしまいたかった。 「泣かないで下さいよ、らしくない」 「泣いてな、い」 「じゃぁ笑って。いつもみたいに僕のこと、バカうさぎとでも言えばいいじゃないですか」 「そんな空気読めないこと出来るか、バカうさぎ」 ヘヘッ、とは声にならなかった空気だけを絞り出し、口角を上げる。 前回会った時のような笑い方が出来ているだろうか。否、今鏡を見たらきっとものすごく不細工な自分の顔が見られるに違いない。 視線は目の前の男の手元へ縛られたまま、上げることは出来ない。したくもなかった。どの面を下げて会えばよかったんだろう。たった数日前までは当たり前に出来ていたはずのことを体が既に覚えていなかったことに困惑する彼女を呼ぶように、ベッドが高く短い音で呼び、それに弾かれたように顔を上げる。 30cm。ベッドの上へ腰掛けたままのバーナビーと音に驚いて顔を上げたの視線が静かにぶつかる。常であれば見上げることが多く直視など殆どしたことがなかった色が、今は逆に恐怖にしか思えなかった。 20cm。腰掛けたまま軽く体を捻ったかと思うと、彼の右手が伸びてくる。まるでスローモーションのように近づく手に、逃げることも出来ず、目の前の男が新しい能力でも身につけたのではないかと錯覚してしまう。 10cm。伸びてきた手はそのまま彼女の頬へと向かう。まだ触れてもいないのに、体中の細胞がそこに全て集合したかのように一箇所に意識が集中する。 0cm。触れた手は包帯を通して、温い体温を彼女へ伝えた。自分の異常に熱いこの体温が伝わらなければいいのにと思いながら。 5cm。離れる瞬間に惜しい、と一瞬でも思ってしまった自分自身に驚く。 0cm。頬を一撫でした手は彼女の存在を逃がすものかとでも言うかのように、カーテンへ縋りついていた腕へと伸ばされ、その体を強く引いた。 白いカーテンの色のない小さな悲鳴の次の瞬間、薄い布越しに体中の体温が交じり合う。 先程頬にだけ集まっていた細胞と意識が全身へ拡散していく様は、酷く不思議な感覚であった。人肌とはこんなにも温かかっただろうか。 「バカだ」 「はい」 「バーナビーはバカだ。でも私はもっとバカだ」 だって君を、虎徹を、他のヒーローたちを最後まで信頼してあげられなかった。 抱きとめられたままの体を抱き返すことも出来ぬままに力なく預ける。相手は怪我人のはずなのに、それでも自分の小さな体など苦でもないように受け止めてくれていた。 「じゃぁ、そんなバカなが好きな僕はきっともっとバカですね」 そう言って今にも泣き出しそうな声が彼女の鼓膜を震わせた。その温度はいつもよりも温く、優しい。 数日間蓋をしていた感情と、出会ってからの数ヶ月間気づかないフリをしていた感情が一気に解き放たれる。ただひたすらにバーナビーの肩に顔を埋め、彼の首元の包帯を濡らし続ける。未だ抱き返すことの出来ぬ手は、その場に縋り付きたい一心で色が白くなるほどに強く布団を握り続けていた。 声というものを忘れたかのようにただ沈黙と消毒液と涙の音だけが支配していた室内で、互いの体温だけがそれぞれを繋ぎ合わせる。そこだけが二人の小さな宇宙であり、世界であった。 そんな様子を見届けながら小さく息を吐いていた男がいた。引かれたままのカーテンの外、その更に先の開け放たれたままのドアの外。声をかける訳でもなく、二人の世界を壊さぬように穢さぬようにと、見届けた全てを心の中へ仕舞いこみ、廊下を静かに歩き去っていく。 まるで小さな子どもたちを見守るかのような温かい視線と、まるで大きくなった子どもたちの旅立ちを祝福するかのように、静かに、そっと。 |