アルコールによってもたらされる浮遊感。覚束ない足取り。霧がかかったように輪郭が淡くなった思考。
それなのに体の奥は酷く高揚していて、白と黒、善と悪、好きと嫌い、双極に位置するあらゆるものがぐちゃぐちゃに掻き乱されているような感覚。
が散らかし尽くした頭の中を整理しながら帰路に着いている最中、ふと導かれるように自宅ベランダを見上げると、窓から薄く明かりが漏れているのに気づく。すわ泥棒か、すわ故郷からの親の強襲かなどと考えるが、現実的ではない妄想は頭を振って早急に脳内から消し去った。
花の名を戴く週末前、既に翌日を捉えた時刻。小さな、でも住み慣れた我が家と、そこの鍵を持つ人物。そして導き出される一つの結論。もし今日でなければ軽くなるはずであろう家路の足取りが、どうしても今日だけは錘をつけられたように重くなる。

「ただいま」
「おぉ、おかえり。もしかして飲み会だったか?」

キーを差し込み、ドアノブを捻る。鈍く唸るドアの声に常ならば口にすることはない言葉を乗せると、確かに返事が返ってきた。きっとリビングでテストの採点でもしていたのだろう。紙の束が擦れる音とペンが机上を転がる音が先導をして、この家の心地よさと同じくらいに身に馴染んだスリッパの音がの耳へ届く。

「もしかしてメールしてくれた?ごめん、全然気づかなかった」

ふらり、バランスが上手く取れない体を左手で壁を押さえて支え、履物へ右手を伸ばすが、脱げない。脱げない。脱げた。今度はもう片方が脱げない!なんでこんなに思う通りにならないの!
声にしないものの誰から見てもわかるほどに藻掻き焦る彼女の様を見て隆弘は、「手伝うか?」と苦笑とともに投げかける。

「へ、いっ…き!」

勢いよく足から剥がし取った靴が床に叩きつけられるのと同じくして、

「うあっ、と。………お前酒臭いぞ」
「えっ、そんな飲んでないのに」
「そんなに飲んでないやつがこんな風に甘えてくるかなぁ」
「あまえてないよ。別に。ちょっとフラッとしただけ。あとちょっと暑い。隆弘君。冷たくて気持ちいい」
「ほら酔ってんじゃん」
「酔ってない!」

前傾姿勢だった体勢から隆弘の胸元めがけて勢いよく飛び込んだ。
大袈裟に息がつまるような音を漏らしながらも、しっかりと抱きとめて背に腕を回した辺り、まだまだ余裕はあるのだろう。
だが、常ならばから率先して隆弘に触ったり、ましてや抱きついたりなどありはしない彼女の変わりように一瞬目を見開いたことは、飛び込んだ先、胸元に顔を埋めながら必死に素面であることを訴え続けるは気づくことはなかった。

「あーあーそうですか、俺が悪うございました」

まるで聞き分けのない子どもをかわすような調子で返したのも相まっていた。その様子が妙に悔しくて、ささやかな抵抗として背に回した腕に力を入れる。今度は抱きつくなんてものではなかった。最早しがみつくと言っていいほどの力でキュウキュウと締め付ける。離すものかと、逃がすものかと。
低く唸るように声にならない声を発し続けるに肩をトン、トンとあやすように叩く音が重なる。

「何があった?」
「…何も、」
「そうか」
「うん」
「何もないの」
「そうなんだ」

トン、トン。かたく閉ざされた扉を開けてもらえるよう、懇願するかのように促すように規則正しく。トン、トン。
にはくすぐったくて、でもとても心地かった。
帰路で整理しきれなかった自分の中のぐちゃぐちゃに絡まった糸がまるで魔法でもかけられかのように彼によって解かれる。



ただ、ちょっと不安になったのだ。
学生時代から付き合っていたカップル。卒業、就職。別々の会社。忙しい新生活。やり甲斐の増す日々。すれ違いの生活。増える喧嘩と、そして別れ。
よくある話だった。よくある別れ話。そんなよくある話を身近な友人たちから身に起きた話として聞かされ、「も気をつけなよ」などと言った一言で締めくくられた。友人たちにとっては既に終わったことであり終わった話だ。別段忠告も警告もには本気でするつもりもないのだろう。世話話の中の一言。それが何気ないばかりに、酷く彼女の心を掻き乱した。
決して好んで飲む方でもないのに敢えて強めのアルコールを早目のピッチで煽り、モヤモヤが晴れぬかと足掻いてみたりしたが、それでも晴れることのなかった気持ちは、覚束ない足取りと不安定な思考をに捧ぐ。長年付き合っている彼氏ですららしからぬと評する行動をオマケに添えながら。

「大丈夫だよ。俺はいなくならないから」

話してなどいないのにまるで全てを知っているかのように欲しかった言葉が降ってくる。
子どもっぽいと笑われるから話したくないと以前にも言ったことがある。今更そんなことを気にする間柄かと返ってきたことも勿論覚えてる。

「うん、うん、わかってる。でもちょっと不安だった」

あと、きちんと話せなくてごめん。後で言う。絶対に言うから。

「だからごめん、ごめん、ねぇ」

許して。素直になれない私を嫌いにならないで。
回した腕は贖罪を求めるように彼に縋り付き、安心させるかのように頭を撫でる手は優しさと温かさで彼女の罪悪感を消し去っていく。

「だって、私ばかり甘えてて、隆弘君がいくら良い言っても不平等だよ…。あと、お兄ちゃんとかお父さんみたい」
「…お父さんはないだろう」

だって、だってと壊れた人形のように繰り返し胸に額を擦り付けるの耳は心なしか赤い。
照れ隠しなのか、普段では中々出てこない言葉が溢れるように出てきている様子は純粋に隆弘に喜びを与える。

「じゃぁ今以上に俺に甘えるといいよ。で、が俺でいっぱいになったら、今度はが俺を甘やかして」

足りなくなったら補って、補われたら返して、そしてまた補われて。二つで一つ。二人で一つ。互いになくてはならない存在で、なくせない存在。そうして続く永久機関。

「…私に出来るかな」
「出来るって。今もしてもらってるし」

勢い良く顔を上げたの視線を逃さぬようにと捉え、見つめ返す。もごもごと出すべき言葉を探しては逃し、見つけては捨てを繰り返す。小さく開いては閉じる口元の少しこすれたグロスがライトの光を反射して妙に艶かしい。

「そうなの?」
「そうなの」
「そうなんだ」

ぎゅっと唇を噛み、固く閉じる。

「そうなんだって」
「真似しないでよ。あとほっぺ、くすぐったいっ」
「ん?お前のほっぺは柔らかいなぁ。あとやっぱり肌が綺麗」

壊れ物を扱うかのように頬を撫でる手に文花は己の右手を添える。隆弘の背に回したまま動くことのない左手は、弱くトン、トンと背を叩く。

「でもそれってずっと終わらないね」
「うん、ずっと終わらないな。でも、終わらなくていいんだよ」

そしたらずっと二人一緒に居られるから。
そう零した男の声は何処か嬉しそうで、目を閉じる最後に見えた唇は触れた瞬間何処までも甘かった。