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幸福とは何たるか。ふと考えてみる。 例えば信号に全く引っ掛からずに目的地へと足を進めることが出来るとか、美味しいものが沢山食べられたとか、近所のツンデレ猫が盛大にデレたとか、今日の天気がすごくいいこととか。 仮令どんなにささやかなものでも、それを幸福と感じる感性と享受する心があるなら、どんなに些細な事象でも幸福となりえるだろう。 不幸とは何たるか。ふと考えてみる。 例えば雨の日に自動車に雨水を浴びせられるとか、期待して買った新製品のお菓 子が予想外のマズさだったとか、近所のツンデレ猫が盛大にツンだったとか、傘を持ってない日に限ってバケツをひっくり返したような土砂降りになるとか。 仮令どんなにささやかなものでも、それが自身の心に翳りを落とすものであるのなら、どんなに些細な事象でも不幸となりえるのだろう。 「ならこれは…」 以上を鑑みて今現在の自分の状況を考察すると、これは間違いなく不幸の方に分類されるであろう。しかも不幸の中の不幸。キングオブ不幸。モアじゃなくてモスト。 眉間に思いきり皺が寄るのも構わずに己の足の上に横たわる青年へと女は視線を落とす。おかしい。自分は確かに公園のベンチに腰掛けて読書をしていただけだ。そして、ついこの陽気に誘われて小一時間転寝をしてしまっただけだ。それなのに何故目が覚めたら折原臨也が私の膝の上で寝こけているのか。何故どうしてという疑問は泉の如く湧き続けるが、考えるまでもなくこれが不幸な状態であることに間違いはないはずだ。 「ねぇ臨也…起きてるんでしょう?」 臨也、と再び名前を呼ぶが、眼下の人間からは全く反応がない。 己の太ももの上、常ならセーラー服を纏うことの多い自分が今日だけたまたま選んだブレザーの制服に合う千鳥柄のスカートに頭を横向きに乗せ、気持ちよさそうに閉じられた瞼。すぅすぅと小さな寝息と並行して上下する肩。スカートとソックスの間、空気にさらされている膝に時々かかる吐息が酷くこそばゆい。 頬にかかっていた髪を軽く避けてやると、白く滑らかな首筋が日に曝される。情報屋として仕入れた何か特別な手入れでもしているのではないか、そう思えるほどに男のそれにしては滑らかで美しい肌に嫉妬の念を抱かざるを得ない。 は女としてのプライドが刃物で滅多滅多にされた気がしたので、心のままに手にしていた文庫本を軽く振り上げる。そして急速に振り下ろす。が、文庫本と臨也が接触することはなく、直前で緩められた速度をそのままに、本は空を横に切り、ベンチの上に投げ出された。 「流石に、八つ当たりは、ね」 誰に聞かせる訳でもない独り言を呟く。そして、それに反応する様子もない。 あまりにも心地良さそうなその顔に、最初は狸寝入りかと思っていたが、軽く貧乏揺すりをしようとも気持ち良さそうな顔で寝続ける様子に、本格的にこの男は寝入っているのではないかとすら思ってきた。その時、 「ひぃ!やめろこの変態!」 太ももから這い上がるこそばゆさに慌ててそちらへ目をやると、臨也がの太ももに頬を擦り寄せていた。それも締まりのない顔で。眉目秀麗などという言葉など砕け散るほどに締まりのない顔で。普段であればそんな彼を見た時には大爆笑の後写メを撮りまくったであろうだったが、今は何とも情けない声を出しながらも必死に青年の頬を叩き、行為を止めさせようと躍起になる。 「え、あれ、さん…起きちゃった?」 何がえ、あれ、だ。わざとらしい。 悪態の一つでもついてやろうと口を開くが何だか馬鹿らしくなっては吸った息をそのまま溜息として空中へ開放した。 「昨日シズちゃんに夜中中追いかけ回されちゃってさ」 「……………そんなのいつものことだし、いつも通り自業自得じゃないの」 大方自ら池袋に行った上に静雄を挑発する真似でもしたのであろう。 突然始まった釈明と現状とがどう一致するのか、それを問いたい気もしたが、この男の話を聞くのはそれだけで疲れるので、彼女は何も言うことなくげんなりとした顔で遠くを見つめる。 目線の先にあるのは風に揺れるブランコ、その前には小さな砂場を取り囲む数人の幼児たち。男女入り乱れたグループだったが、彼らが作ったであろう砂の城の前に集まった数人がこちらを見るなり、「キャーらぶらぶだー」「ヒューヒュー!」「おれしってる!じょしこうせいとおとなってはんざいだ!」などという今の彼女の神経を逆撫でしかねない言葉をこちらに向けて投げかけていた。 「ねぇ臨也…幼児に対して本気で殺意を抱いたのも、ラブラブって言葉を今すぐこの世から排除したいって思ったのも、私、今この時が初めてだわ」 「うわぁ、相変わらずさん手厳しー」 何のダメージも受けた風もなく臨也は返答をする。ギロリと睨むと、肩を竦めて「おー怖い」などと笑いながら言っていた。 さり気なく己のウィッグを弄んでいた彼の手を叩き、乱れなどないか手櫛で軽く手直しをする。 「それはどうも」 「そんなツレないところも俺は好きですよ」 「あーはいはいウザイわよ、少年」 シッシッと犬でも払うかのような手つきでは臨也の言葉を払いのけた。あー酷い酷いなどと心象と一致していないであろう言葉を数々言い続けた彼が、 「でも、」 同じくブランコの方を向いていた臨也の顔が天を仰ぐ。必然的に彼を見下ろしている彼女と目が合い、 「でもそんなに嫌なら俺のことさっさと叩き落としでもすれば良かったのに」 と、その赤い目を逸らすことなく言葉にした。ニィと苛立たしさを増徴させる笑顔で自分を見上げる青年に、女は引き攣る頬を元に戻すことも忘れて見つめ続けた。そよそよと春らしい暖かな風が吹き彼女のロングツインテールのウィッグと彼の黒髪を緩く揺らす。人工と自然の黒髪が日の光に透け、先の子どもたちには黒い夜空の中に小さく星が光るように見えており、先程とはまた違った歓喜の声を彼らに上げさせていた。 「うっ…そ、それは…」 言える訳がない。言える訳がなかった。 普段はわざとらしく憎たらし気に歪められたその表情が本当に、本当に穏やかに見えただなんて。それが自分の膝の上だったことが、まるで青年の心の奥の一番本音に近いところに触れられた気がしたからだなんて。だからこそ優越感を感じていた自分は起こすのが惜しかったとか、もう少しその顔を見ていたかったとか、そんな目の前の青年が調子に乗るであろう(下手したら自分の弱みになりかねない)理由、そんなものは言える訳がなかった。 「…それより臨也、私、足痺れそうなんだけど」 「あれ、はぐらかした?まぁ、いいや。痺れたらそれはそれでいいよ。おんぶして俺ん家まで運ぶから」 いつからこの体勢を始めていたのか、彼女自身不覚ながらわからないが、流石に足が微妙な感覚を覚え始めたことくらいは自分でもわかった。 というか、それは誘拐ではないのかと一言添えるべきだろうか。 「誘拐じゃなくて、同意の上なら問題ないんじゃない?」 彼女の心をまるで読んだかのような返答を返し、先程と同じように苛立たしさしか与えない笑顔でこちらを見ている相手を今日一番の忌々しさを女は感じた。 「嗚呼、だったら同意してないから大丈夫ね。『お巡りさーん!黒ずくめでボッチで不憫な男がいたいけな女子学生をおんぶしてお持ち帰りしようとしますぅー!』って叫んでやるんだから」 練習だと言わんばかりに大きめの声で台詞を吐くに、青年は呆れたように目を逸らす。 「ってかさん、学生じゃないってかそんな格好してだいぶいい年なん」 ガスッと鈍い音の後、臨也の額の一部が赤く腫れた。先程任務を真っ当出来なかった文庫本はその役目をまさに今その重要任務を果たしたのだ。女性に年齢の話題はタブーであるということは、いまいち彼の中で欠如していたらしい。 「はいはーい!さぁ、除けた除けた!」 今まで溜め込んだ我慢を燃料に、彼の頭を力一杯に押しのけて彼女は立ち上がった。そして、そのままベンチを背にし、足早にブランコと砂場の後方、数十メートル先の公園の出入口へと歩を進める。 「ねぇ、さーん」 「さんってばー」 「さ…あー本当に行っちゃうし。ほんと、退屈しないし、飽きない人だなぁ」 俺なんかに目をつけられて可哀相なさん、でも本当に好きなんだよ。 公園を出る際に女が一瞬こちらを見たような気がして、彼はそう呟く。勿論こんな距離では聞こえてなどいないだろうが、心なしかの歩みが速まったような気がして、臨也は恍惚の笑みを浮かべる。まるで獲物を見つけた獣のように、彼の目と同じように真っ赤な舌をチラリと口から覗かせながら。 |