「あっつい紅茶をひとつ」

手にしていた鞄を床に投げ捨て、は自身の体も床へ投げ出すように転がった。ガタン、痛っ。勢い余ってどこかへぶつかったらしい。全く慌しい少女であるとアーサーは流れ落ちる汗を手で拭いながら、そちらを見遣る。
帰宅を告げる声をもなく足早に居間に飛び込んできたかと思えばこの調子で扇風機の前を占拠した。この家の住人である彼女にとって、どの角度にどれだけの風量が来るかは既に把握済みらしい。使い込まれて少々年季を感じる機械の一番仕事をするであろう位置の前にだらしがなく大の字になって寝転がっていた。
これだと玄関では彼女の靴は見るも無残な様子で散らばっているに違いない。あつい、小さく唸るように聞こえた言葉は何とか搾り出された様子のもので、仰向けながら髪の毛が目元に張り付いていたためよくは見えないがきっと苦悶の表情なのであろう。ジリジリミンミンと鳴き続ける夏の虫たちの声が聴覚をも暑さで支配しようとしている。

「なぁ、俺、一応客なんだぞ?」

太い眉毛を歪め、眉間に皺をたっぷりと寄せながらアーサーは彼女へ声をかける。
あついあつい、まるでそれしか知らぬように彼女は呟き続け、男の言葉など聞こえぬ風に唸っていたが、まるで2mもないであろうこの小さな距離の間に大きな時差でもあったかのように漸くにして脳に届いた言葉へ張り付いた前髪を忌々しげにかきあげながら、答える。

「何言ってんですか。暑い時こそ熱いものでしょう」
「はぁ?」

すっとんきょな声が部屋に響く。

「だーかーらー、暑い時こそ熱いものなんですって」
「何だよそれ、お前Mだったのかよ」

からかい半分、憐憫半分の目でアーサーはを見下ろす。天井の木目へと視線が釘付けになっている彼女とはまだ視線を交わすことは叶わない。

「どうしてそういう方に話を持ってくんですかねー…」

げんなりとした口調で答えながらはごろりと寝返りを打つ。うつ伏せになった状態で畳に肘をつき、顎を乗せて、気だる気に視界に入ったアーサーの腹部を見つめる。腹筋を押さえられているからか、続く声は先よりややくぐもっていた。

「暑い時に熱いものを口にしたら自分の中の暑さの認識度が下がって涼しくなるじゃないですか」
「…寒いって言ったら寒いって答えてくれるから暖かいっていうのと一緒か?」
「おお、よくご存知で。ではサラダの話も知ってますか?」

それは知らん、と彼が言うと、では今度本を貸しますよ、とだけ彼女は返した。概要すら話す気はないらしい。

「というか、それで言ったらお前がさっきから暑い暑いと連呼してるのは、」
「アーサーさん、あっつい紅茶を」
「おい聞いて」
「ねぇ、アーサーさん、紅茶、」

見えない時差が再び発生したらしい。は再び仰向けに戻り、スカートの裾をパタパタと揺らして、扇風機からの風を享受することに集中し出した。彼女の手の動きと風鈴が連動したかのように、がスカートを持ち上げれば風鈴は右に、スカートを元に戻せば左にと揃えたように動く。
ちりん、ちりん、ち、ちりん、スカートが音を出してはためいているようにすら錯覚する。何が楽しいのか小さく笑うの声と風鈴の音と虫たちの声が壊れた音響のように繰り返される。
持ち上げられた時にスカートが日に透けるその様子が何とも扇情的な光景だ、などと彼自身が思うよりも先に、「はしたないぞ馬鹿娘!」と声と手は行動していた。叩かれた額を軽く押さえながら、先とはまた別な唸り声を上げるを目にして、自身の保護者としての板のつきっぷりに彼は年月の流れを感じるばかりであった。

「のど…かわいた…」

こういう時はあれだ。本田がいつも出してくれるムギチャというのを飲むのが日本での慣わしなのではないのだろうか。茶が冷えているなどどういう訳だと最初は思ったが、なるほどこの湿度とこの温度に抗うにはこの冷えた茶というのが最適なのだろう。先人の知恵、黒髪の彼が愛する夏の味。彼女にとってもそれは当てはまるのであろうが、それでも今は「あっつい紅茶」を所望である。「あっつい緑茶」などではなく、「あっつい紅茶」を。

「仕方がねぇな…別に俺が飲みたいからついでに淹れてやるだけだからな!」

よいしょ、床に着いた手に力を入れ、体を下から上へ突き上げるように勢いよく立つ。地に両の足が立った瞬間にふらりと体が揺れたのは、年なのではない、ただ少々慣れない姿勢で長く座り続けていたのとこの暑さのせいだとアーサーは心中言い聞かせる。
若しくは、再び風鈴と呼応し始めた彼女のスカートの揺れる世界へ彼も引き寄せられてしまったのかもしれない。

「アーサーさん、おじいさんっぽいですよ」
「じいさんはお前の保護者だろうが」
「うわー、言いつけちゃっていいですかね!本田さん怒ったら怖いんですよ、きっと」
「…ああ、知ってる」

何故か掛け声だけ妙に日本語じみた発音であったこと、それがまた彼女の笑いを誘った。
コロコロと何がそんなにおかしいのか男には分からぬが、そんな様子など関せずといった調子では笑いながら只管にスカートを仰ぎ続ける。がスカートを持ち上げるとアーサーの足は右足を踏み出し、がスカートを元に戻すとアーサーの足は左足を踏み出す。彼女の世界へと緩やかに彼は引っ張られる。
紅茶用のカップはどこへ仕舞われていたか、上手く働かない思考の中でアーサーは必死に思い出す。
頭の端では未だが涼を求めてゆらゆらとスカートを揺らしていた。