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室内の静寂を切り裂くように鳴るチャイムの音。押し売りの類なら無視を決め込もうと男は寝転んでいたソファーの上で寝返りを打ち、一度は開けた目を静かに瞑る。が、常であれば数度と続くはずだった呼び鈴の音はその後一度もなることはなく、そのことに妙な不安感を覚えて、「あーはいはい」と誰に聞かせる訳でもない返答を零しながら玄関へと足を向けた。 「喧嘩、しました」 頭を掻きながら気だるげに開けたドアの前。視界に入ったのは見慣れた少女であった。見慣れた、過去の彼が聞くときっと嘲笑したであろうその言葉。だが、その言葉を使えるほどには彼らは顔見知りであり、親交があることは否定出来ない事実であった。 「喧嘩、しました」 は二度目、同じ言葉を発す。 「喧嘩を、しました」 「…」 「喧嘩をしたんです」 それしか知らない者のようにただ、「喧嘩」を「した」。その事実だけを繰り返し告げる。 眼下で壊れた玩具のように同じ言葉を呟く少女。その彼女にその場では敢えて何も問わず、背に手を回してギルベルトは家の中へ促した。 「で、どうしたってよ」 促された椅子に腰掛け、手渡されたカップを両手で包んだままは黙って琥珀色の水面を見つめ続ける。時計が時を刻む音だけが正確に室内を行進し続ける。どれだけ待ってもどんなにその音を聞き続けようとも微動だにせずに水面に自身の顔を映し続けるだけの様子のを一瞥し、ギルベルトが小さく漏らした溜息の音が妙に室内に響き渡った。あまり大きく吐き出したつもりは彼自身なかったが、しかしその小さな音にも少女は過剰に反応し、肩を震わせる。 「怒ってる訳じゃねぇから」 そう言葉では表現したが、現状は彼にとっては非常に苦手な類ではあった。 子守は嫌いだ、と彼は思っていた。否、今でも思う。言葉を改めると彼は子どもは嫌いだ。端から見れば溺愛の対象にしかなっていない彼の弟に対してすら、出会った当時はそのような感情を抱いていたのだ。子どもと大人。重ねてきた経験も、享受してきた経験も、与えられた経験も全て違う二つの対象。その間では、思考の伝達が己の意図したものにならない。意思の疎通が困難である。紡がれる言葉の語彙が少ない。つまり埋めようのない己との経験値の差に対する苛立ちというか、相手へ膝を折り距離を縮めることを善しとしない彼にとっては自身に対等ではない関係の生き物の扱いが彼は苦手だったのだ。特に人の子と自身とでは、そのことを痛感することが多い。 「あの、」 招き入れた当初よりはやや顔色が良くなったがやっとのことで喋り始める。その小さな言葉たちをギルベルトは取りこぼさぬよう、耳を傾ける。 子どもは嫌いだ。自身が膝を折り、距離を縮めることは嫌いだ。だが自身の不足を自覚しながらもこちら側へ歩み寄ろうとする生き物を、彼は嫌いではなかった。他者が聞けば何と身勝手なと思われるであろう考え。それでもギルベルトは自身を曲げることはしなかった。その不器用なまでに真っ直ぐで芯の通った彼だからこそ、悪態をつかれながらも今まで友にも盟友にも恵まれてきたのだ。 「――― そんな感じで喧嘩をしたんです」 「…何だ本当にただの喧嘩じゃねぇか」 押し黙っていた時間よりも寧ろ喋っていた時間の方が短い気がギルベルトにはしていた。全ての話を聞き、肩に入れていた力を一気に抜いてソファーへと全身をだらりと預ける。全体重を一度にかけられた家具は小さな悲鳴を上げ、衣擦れの音が木霊のように悲鳴を追う。 たどたどしいながらも整理し、現状を説明した少女の話の内容は至極単純なものであった。 喧嘩をした、と。本当に、本当にただそれだけのことであった。 「ただの喧嘩って…喧嘩したんですよ?今までそんなことされたこともないのに、頭バコーン!て叩かれましたし、私は私であの人の足を」 「本田はお前に何て言ったんだ?」 彼女の言葉を遮るように出された、少女にとって保護者のような兄のような存在の名前。どうしてこの男はこんなにもお見通しなのかとは小さく唸りながら、 「け、喧嘩両成敗…」 彼の人が言った言葉を吐き出す。ほらみろ、とばかりにギルベルトはしてやったり顔で言葉を受ける。 その顔はからは見えてはいなかったが彼女には容易に想像がついたし、そんな彼女が顔を真っ赤にしながら口をパクパクとさせ、何か反論をしようとしているであろうことも見えてはいないがギルベルトには手に取るようにわかっていた。 「ここでうじうじと喧嘩したーどうしようーきゃー困ったわーとか言ってる前にお前はやることがあんだろ」 茶化しながらも突き放されるような物言い。酸素の足らぬ魚のように口を開閉させていた彼女は、その言葉を聞きピタリと動きを止める。どうすれば現状を解決できるか、それは彼女自身もわかっていたのだ。わかっていてももう一押し、誰かに背を押して欲しかっただけ。 「… ちょっと謝ってきます」 「おう、行って来い」 少女の方を振り返ることなくひらひらと手を振り、ギルベルトはを送る。 「そうだ。おい、」 扉へと手をかけた瞬間に聞こえた名を呼ぶ声に引きずられるように声の方へ振り返る。 「きちんと謝れたらまた戻って来い。良い子良い子してやっからよ」 ソファーに完全に身を沈めた男の様子はの位置からはよく伺いしれなかった。が、それでも彼が精一杯に彼女の背中を押していることは明らかで、 「ええ、お茶、淹れ直して待ってて下さいね」 それだけ返して扉を閉める。目的は速やかに遂行せねば。うじうじ悩んでいる自分をこれ以上嘲笑されるのも癪ではあったし、両成敗などと言われるくらいならもう一喧嘩してでも互いの意見を言い合った方が保護者にも相談に乗ってくれた彼にも示しがつく。 閉まる音と共に消えた彼女の決意の気配を感じ、ギルベルトはくつくつと肩を揺らして笑いながら身を起こす。茶だけでなくクーヘンも一緒に用意して、せいぜい先ほどの彼女の醜態でも弄り倒してやろうと、彼は頭に乗った小鳥を突付きながら微笑んだ。 |