働かざるもの食うべからず。
実に利に適った言葉だなぁ、とは手に取ったトマトを見て思う。
労働に見合う対価を受け取る権利と言うとどこか堅苦しい感じがするが、事実、己の労力なり時間なりで奉仕した者には相応の褒美が授けられて然るべきだ。それが金銭でもその他の物でも何にせよ無報奨の労働とは比べ物にならないほどにやる気が出る。現金なくらいの方が人間、楽しく生きられる気がする。
先程手に取ったトマトへと再び視線を向けると彼女の心の声に賛同するかのようにキラリと太陽の光を反射する。
今もぎ取ったばかりのそれは瑞々しさに溢れ、太陽の光をいっぱいに浴びた姿はさながら生きた宝石のようだった。

ちゃーん」
「あ、はーい」

後方から己を呼ぶ声が聞こえたので振り返りながら呼応すると、アントーニョが小走りでこちらに向かってくるのが見えた。頭には麦わら帽子、片手には大きな籠が1 つ。空いている手を振りながら向かってくるその様子は雑誌に出てくるモデルなどよりも整った顔立ちや体躯に加え、爽やかさが前面に押し出された青年の姿だったが、汗が垂れるのを防ぐためか、帽子の中にタオルを被って顎の下でタオルの端を結んでいるギャップに彼の人となりや親しみやすさを感じてしまう。

「おっ。何やだいぶ進んどるなぁ」
「えぇ、先生の指導が良いお陰で」

足元の籠がトマトで満たされているのを見てアントーニョは関心したように呟く。それに自慢げに答えると、「流石やで、我が弟子!」とわしわしと被っていた帽子の上から頭を撫でられた。
以前熱中症で倒れたことがあったことをアントーニョが忘れている訳などある訳もなく、手伝いに行くと言った後にすぐにこの帽子を持ってきたのだ。白地に淡い水色の水玉模様のリボンがついた可愛らしい麦わら帽を。思わず「これ…ロヴィーノさんのお下がりですか…?」と言ったところ彼には爆笑され、その子分であるロヴィーノは「帰ったら覚えてろよバカー!」と捨て台詞を吐いて一足先に畑へ駆けてしまったのだが。彼の思いやりの気持ちが形となった帽子、それに添えられる大きな手のどちらにも心地よいくすぐったさを感じて身を捩じらせると、彼の笑みは一層深いものになる。

「ほんならちゃん、晩のリクエストあるか?」

どうやら今回の畑仕事の手伝いの対価もとい報奨というのは彼手製の料理らしい。

「うーん…アントーニョさんのご飯はどれも美味しいですから迷いますねぇ」
「嫌やわぁ。そんな嬉しいこと言って煽てても何もでぇへんでー」
「え、美味しいご飯が出てくるじゃないですか」

そう至極真面目に彼女が答えると、「ほんま上手いこと言いよるわぁ!」と彼は満面の笑みを少女へと向ける。
には何がそこまで楽しいのかよくわからなかったが、それでもこの男の心からの喜びを表した笑顔であるということが見ているだけでわかった瞬間、何故か心臓がトクンと常より早めに打ち始めているのに気づいた。そんな自分の変化に小さな疑問を抱いていると、己の顔を覗き込まれていることに気づき、相手に視線のみで何事かと問う。ちらりと見上げたアントーニョの顔は矢張り楽しそうなものである。が、そこに少しの憂いが加わっていたことに彼女は気づいた。

「…なぁ、自分あつうないか?」

憂いというよりは心配と言うべきか。問われたことは何気ないものであった。暑くはないか、ただそれだけ。
確かに祖国とは緯度も経度も違ったこの国の日差しと温度と湿度に体が悲鳴をあげていない、と言えば嘘になるだろう。しかし用意してもらった帽子を被り、それと共に渡されたアントーニョの私物であろうTシャツ―――雪のように真っ白で彼女が着るには大きすぎるもの―――を纏い、袖をたくし上げてタンクトップ状にして着ているのだ。日差しは変わらずに受けるが、元着ていたセーラー服の時に感じたものに比べれば大した問題などではなかった。

「え?あー…特には、」
「ほんまか?無理してへんか?というかな、女の子やったら日焼けが!とか紫外線が!とか気にするもんかと思ってんけど」
「ああ!そういうことですか」

やっと話の意図が見えたとばかりには大きく頷く。

「まぁ、世間一般、少なくとも我が国の普通のこの年頃の子はそうなんでしょうけど、個人的には特段問題はないですよ。それにこうやって日の下で何か作業をするのなんて小さい頃振りですし、」

だから妙にはしゃいじゃってるんじゃないでしょうかね。
そう言いながら体躯に合わぬシャツの袖から伸びた腕を揺らして小さくガッツボーズをするかのように両の腕を上下に動かすと、アントーニョは呆けたような表情で彼女を見つめる。大きな袖口から伸びる細く小さな腕。数値で表現出来る力で比べても己とは比較にならないであろうその弱く脆い細腕には、何故かアントーニョよりも強く大きな力が宿っているような印象を彼は受けた。過去に日の沈まぬと言われたこともあった自身の土地の下で日の光に反射してより一層透けてしまいそうに白い白い腕にだ。日光の強さにシャツの白さと肌の色、二つが同化して消えてしまうのではないかという不安を覚えた瞬間もあるが、これが人間というものの神秘というものなのだろうかと彼は考え、

「アントーニョさんのお手伝いが出来ることも嬉しいですし、私自身が楽しんでますので。アントーニョさんの憂うことは何もありませんよ」

そう笑いながら答える少女の言葉で考えを確信に変え、満足げなまなざしで見つめる。

はいつも知っていた。彼女を見つめるオリーブ色の目はいつでも慈愛に満ちていることを。大きな大きな見えない暖かいもので包み込まれるような包容力がその目にはあることを。これが国というものの力であるのだろうか。
それでも、彼が自身を親分と呼ぶように公言していることは知っているが、成る程、自称ではなくても確かに彼のこの懐の深さなら人の上に立つ者としては適任なのであろう。先程の心音の変化も決して不快感のあるものではなかった。寧ろ心地よさすら感じる、心の奥がこの日を浴びた時と同じように明るく強く照らされる安堵感に満ちたものであったのだから。







暫し言葉もなくとアントーニョはお互いを見つめる。時々気まぐれに吹く風が二人の麦わら帽を揺らし、風の悪戯に植物たちの小さな悲鳴や歓喜が聴覚を通して涼を彼らへ届ける。その風に乗せて小さく二人を呼ぶ声が混じり始める。
二人がほぼ同時に声のする方へ顔を向けると、声の主の青年、ロヴィーノもまた大きな籠にいっぱいの赤い宝石を閉じ込め、声音と共に二人の立つ場所へと近づいてきていた。

「二人してサボってんじゃねぇよ。見てみろよこの量!」

さも自慢げに籠を掲げながらこちらへやってくるロヴィーノの様子に二人は同時に噴出す。

「ロヴィーノさんも珍しく懸命にやって下さったみたいですし、今日はご馳走になりますね」
「せやな、あれだけ量があるんだし…折角ならトマト祭りでもしよか!」
「も、もしかしてあの投げるやつですか!?折角収穫したのなら私は肌に塗るより胃に収めたいんですけど…何より初心者の私に勝ち目はありませんので…」
「何だ、お前勝てないからって勝負しないってのかコノヤロー」

どの口がいうのか、いつの間にかアントーニョの隣に立っていたロヴィーノは少女の頭へと手を置きながらぐりぐりと動かす。小さく抗議の声を挙げながら一瞥をくれてやるが、その表情はどこか朝の帽子の一件を未だに引き摺っているようにも見えた。

「勝負自体があまり好きではないというか…不要なことは別にしなくてもいいと思わないんですか、ロヴィーノさん?」
「それはそうだけどよ、にしたってそんな逃げ腰とはなぁ」

カチン。少女の頭の中で闘争心というスイッチがONになった気がした。
馬鹿にしたような表情で体をかがませて覗き込んでいたロヴィーノは未だにその手を彼女の頭へと乗せたままだった。はその手を素早く手に取り、精一杯の力で己の方へと引き寄せる。突然の彼女の行動に逆らうことが出来なかったであろう彼が反動でよろけて前屈みになったところへ、背伸びをしながら彼の頬へと小さなリップ音を立ててキスをひとつ。

「勝てない勝負?勿論、私はそんなものしませんよ」
「な、な、な…おま…」
「ちょ、ちゃん何しとん!?」
「因みに今のは余裕で勝てる勝負ですので!」

そう言い放って少女は本日の滞在先であるアントーニョの家への道を一直線に駆ける。足元に生えている作物たちを踏まぬように上手に跳ねて駆けてかわしながら。
驚きのあまり動けずにいたであろう青年二人に向かって彼女が振り返った顔はしてやったり、まさにその言葉がしっくりとくる表情であった。小さく出された舌が大きな反抗心と突然の攻撃の成功の喜びの大きさを表していた。

「………」
「…… なぁ、ロヴィー…覚悟はええか…?」
「い、いいいいい今のはが勝手にやっただけで俺は別に悪く…!ってかその手をしまえよトーニョてめぇ!」

何やら二人が騒ぎ立てているようだが気にしては追いつかれてしまう。は上がり始めた息に肺が悲鳴を上げているのを感じながらも、一目散に足を目的地へと動かし続けた。騒ぎながらも後に帰ってくるであろう二人に何か冷たい飲み物でも用意しよう、そしてぽこぽこと怒るロヴィーノを宥めるアントーニョを迎えながら二人に謝り、そして三人で一緒に夕食の用意をすることを思い描きながら。まさかただ騒ぎ立てていたと思っていた既に見えぬ背後にいる男性陣が何やら打ち合わせをしていることなど露も知らずに。

「まぁ、ええわ。今はロヴィを怒るより先にせないかんことがあるし」
「先にって…なんだよ」
「ん、わからん?」

ニィ、と悪戯を思いついた子どものような表情でアントーニョはロヴィーノに問う。

は勝てない勝負はしない、そう言うてたよな」
「あぁ、」
「なら俺らがこれからする”勝てる勝負”は何やと思う?」

数秒の沈黙の後、成るほど合点がいった様子でロヴィーノは口を開く。

「今からすぐ帰ること。んで、あいつをもてなしてやること、か?」
「さっすが俺の子分!しっかり分かってるやないのー」

そう言いながらが収穫したのであろう籠と自身の籠を両手に一つずつ持ち、アントーニョは自宅へと足を向ける。

「あの子の食べっぷりったら見ててもう惚れてまうほどなんやでー」
「確かにあいつ、食い意地だけは誰にも負けそうにないよな…」
「だから美味しいご飯をたんと作っていっぱい食べさして、んで、「親分美味しい!大好き!」って言うてもろうてお礼にキスでもしてくれたら、さっきのことチャラにしてもええわ」
「まだ根に持ってんのかよ」

げっそりとした様子でロヴィーノは項垂れた。そんな隣の様子を見ながらからからと愉快そうに笑う。

「あ。なら、俺もお前を手伝ってからかったことをチャラにしてもらえばいいんじゃ、」
「チャラってまたキスしたってもらうってことなん!?もしかして次は口なん!?く、口はあかんよ!嫁入り前の子の口にキッスは流石の親分も許さへんで!」
「キ、キスなんてしねぇよ!話くらいちゃんと聞け!ってか、んなことしたら本田の爺に殺されるに決まってるだろ!」

ギャーギャーワイワイ。止むことのない言葉と笑い声。顔を見せ始めた月の光が二人の背をアントーニョの家へと促し、沈みつつある昼の日が少女の小さな体を照らして影を長く大きく伸ばす。静かに下り始めた帳は三人が向かう家を包み込み、そして笑いの絶えぬ食卓を見守る。