「やぁやぁ、世界のお兄さんの登場だよー」
「やぁやぁ、世界のお兄さんはお呼びではございませんので、失礼いたしますねー」

引き戸の向こうに見えたその姿に、即座に台詞を返して脊髄反射で戸を閉める。が、閉めきったはずだったそれはあと少しのところで相手に足をねじ込まれてしまい、彼女の願いは叶わなかった。

「…フランシスお兄さん、往生際が悪いですよ…!」
「そういうちゃんだって。ほらほらお兄さんが遥々遊びに来たんだから入れなさいー」
「きょ、今日はお母さんがいないので無理なんです!」

赤頭巾ちゃんという童話をは思い出していた。
因みに今回の場合、食べられるのはおばあさんではなく少女の方ではあるが。












何の連絡もない突然の来訪に根拠のない恐怖感を感じてドアを押さえる手に力を込めるが、相手は国と言えど成人男性。がどんなに力いっぱい押さえていようとも、引き戸の向こうの相手はどこか余裕ありげな楽しげな雰囲気を漂わせている。それがまた彼女の癇に障った。
苛立ちを抱える彼女にその存在をアピールするがようにギシギシと扉が悲鳴をあげ始めた頃、ほぼ同時に彼女の手が限界を訴えて力が入らなくなり、苦しさが脳内を占拠し始めたところを付け込むように勢い良く横に引かれる扉。
扉越しの攻防はあっけなく終了した。勝者は勿論フランシスだ。

「はぁはぁ…い、いたいけな少女を苛めて楽しいですか…?」
「自分でいたいけって言っちゃう子はいたいけじゃないでしょ。可愛い女の子であるのは認めるけど」

さり気なく言われる言葉に頬が赤く染まる。

「きょ、今日のご用件は何ですか?本田さんなら会議で…」
「いや、今日はちゃんに用があって来たんだよ」

羞恥心を誤魔化すように言った彼女の言葉を遮った男に、は素直に疑問を表情に出し、己の心の内を訴える。少女のこういう面が好きだ、とフランシスは思う。思ったことを思ったままに表現すること、人とはまた違う存在とはいえ、そのことが難しい場面に何度も直面してきた彼としては、こういう表裏のない素直な存在というのは愛しいことこの上なかった。

「うん、これさ」

そう言いながら彼が差し出したのは、一通の封筒であった。が上目で男の表情を伺うと、満面の笑みで受け取るように促される。恐る恐る少女が手を伸ばして慎重に封を開けると、そこには2枚のチケットが入っていた。自国語ではない文字が書かれている折り目のない綺麗な長方形の紙。上質なものが使われているのだろう、それが一目でわかるその紙の馴染みのない触り心地に、彼女は自分の手が自分の物ではないような感じがしてくる。どこか心がふわふわと落ち着きがないのを感じながらも、その存在を確かめるかのように印刷面の文字を人差し指でゆっくりと軽く触りながらそこに書かれている文字を追うと、はあることに気づいた。

「え、これ…」
「うん、たまたま手に入ったんだよね。折角だったら行くなら可愛い子と行きたいからねぇ」

"たまたま"。彼はそう言ったが、彼女にはそれが偶然を装った必然であるとしか思えなかった。
以前、もうどのくらい前になるか覚えていないほど前にあったやり取り。多分出会ってまもない頃に話したであろう話。それをこの男は律儀に覚えていたのだ。
ある日のこと、フランシスと二人きりで会話をすること機会があった折に会話が続かないことに焦燥感を覚えたが咄嗟に口にした一言―――彼の国の人であった、彼女でもよく知る作曲家の話―――彼の作品がオペラであることを知ったので、是非機会があれば見てみたいと一言言ったことがあったのだ。
オペラなど、常であったら見ることなど殆どない。ただ、その中の一部の曲のみが自国で有名であったが故に知っていただけであった。その程度の浅い知識を続かない会話と気まずさを紛らわすための手段に使っただけであった。が、「それは良い話を聞いた!あいつには何度か会ったことあるけど、俺に興味を持ってくれるきっかけになったって話したら喜んでくれるだろうよ。何より、今度お姫様をエスコートする理由が出来たんだからね」と嬉しそうに笑う彼の顔に、今日と同じように頬に熱が集まるのを覚え、会話の続かなさとはまた別の気まずさを覚えたのであったが。

「お、覚えてたんですか…?」
「もしかして忘れてたと思った?そりゃぁ、時間は経ったけど…俺の国のやつを褒めてもらえたのが嬉しいのは本当だったんだから、勿論覚えてたよ」
「はぁ」

さも当たり前のように告げる男に相槌を打つだけで少女は手一杯であった。

「というか、菊には一応話してあったんだけど―――もしかしなくても聞いてなかった?」
「え、えぇ…今日は会議があるから留守を頼むとしか…。ただ、珍しく今日は家から出ないようにと言われていた理由が今何となくわかった気がします」

チケットから視線を外すことなく、少女は言葉を返した。彼女が今持ちえる注意と興味は全て手元のチケットへと注がれる。
さも偶然が重なったように先程男は言っていたが、いくら自国の作曲家の作品とはいえ、今回はの国―――彼から見れば他国―――で上演されるものだ。それこそ手を尽くさなければ手に入らなかったであろう。これがどれほどの希少性を持ったものであるかは彼女には悲しいことに正確にはわからない。が、しかし、それでも彼の心遣いが嬉しいことには変わりなかった。
何より心遣いも手に入れる労力も微塵も感じさせることのない紳士性。それがこのフランシスという人である、とはよくわかっていた。わかっていたからこそ、無碍に断ることも、断る理由もなくなってしまう。

「でも私、実際にオペラを見たことなくて、その…」
「あぁ、服装とか?別に今回はそこまで必要な場所だとは思わないけど…大丈夫だよ、良かったらそれも俺に用意させてよ」

言ったでしょ、お姫様をエスコート出来る権利を得られたって。まるでどこかの漫画で見るような台詞を己に投げかけられ、一瞬思考が停止する。彼の唇に添えられた人差し指も片方だけ閉じられた目も悔しいながら、絵になっていた。矢張り国籍が違うとやることが気障ったらしくてもそれが見栄えあるものになるらしい。

ちゃん、今すっごい失礼なこと考えてなかった…?」
「いえ?何も?ただ…本当に私、お姫様みたいだなぁと思って」
「みたいじゃなくて、今日はそうなんだよ」

そう言って差し出された手へ導かれるままに少女はそっと自分の手を乗せると、添えた手はゆっくりと男の腕へと引き寄せられた。

小さな頃に憧れていた絵本や映画の中のお姫様もこんな気持ちだったのだろうか。今彼女を満たしているのは、自分がまるで誰かの中での一番の特別になっていると感じるような高揚感である。この瞬間に世界で一番自分が幸せであると感じられる恍惚とした気分。
いや、きっと自分は彼女たち以上に今幸せだと言える。そう思いながら組んだ腕にぎゅうとしがみ付き、

「では、王子様、私めに貴方の手で魔法をかけて下さいな!」

そして満面の笑みをフランシスへと向けた。