唐突に眠ることが不安になることがある。
瞼が落ちる瞬間のあの逆らうことの出来ない絶対の力。まるで見えない力によって意識が深い深い水底へと無理矢理引き摺られるような感覚。それが彼女にとって、恐怖以外の何物でもなかった。誰だ、こんなものを三つしかない欲求に入れたやつは。今すぐにでも横っ面を引っ叩いて、選択の自由を声高に叫んでやりたい。そうしたら私を脅かす存在が一つ、確実に減るのに。

こんなことを彼女が考え始めてから既に数時間は経ったであろうか。は布団の中に入った時と同じ体勢、仰向けで天井の木目を苛立たしげに見つめ続けていた。
それから少しして、このまま布団の中にいてもまた堂々巡りであれこれと考えてしまうだろう。そう結論付けて己の体を起こし、布団から出た。冬の、しかも真夜中に布団の外へ出るなんてそれこそ自虐行為としか思えない行為だったが、今の彼女にはそんなことは言ってはいられなかった。兎に角気分転換が必要だった。水でも一杯飲んで、一呼吸置いて、出来ればポチ君を起こさぬ程度に軽く触って癒されてから、それからそれから、

「ん…あれ、本田さ、ん…?」
「おや、さん」

ぶつぶつと呟きながら廊下を歩いて居間を通りすぎようとした時。人の気配に驚いて顔をあげると、この家の主である本田菊と目があった。時は既に丑三つ時。互いに常であれば寝ているであろう時間であったことから、見合わせた顔はそれはそれは互いに心底驚いたものであった。
「どうしたんです、こんな夜中に」、先に驚きから解放された本田が少女へと問う。

「いえ、あの、ちょっとその」

驚愕よりも先程の独り言を聞かれたかもしれないことに戸惑い、言い淀みながらが本田の手元へと目を遣ると、そこには一組のお猪口と徳利があった。
珍しい。決して飲めない訳ではない、寧ろ彼の友人たちから聞いたところによるとザルだと言っても過言でない人ではあるが、こんな時間に一人で飲酒をしているだなんて。

「もしかして、寝酒ですか…?」
「…お恥ずかしながら。まぁ、今夜は月が綺麗だからつい、ということにしておいて下さい」

そう言って本田ははにかみながら人差し指で頬を掻く。
その頬がほんのり赤く見えたのは、酒のせいか、それとも羞恥心からくるものだったのか、彼女にはわからなかったが問うてよい雰囲気にも思えず、曖昧に頷くだけであった。

さんも何か飲みますか?」

突然の誘いにえ、と小さく声が漏れる。

「ご用意しますよ。何がいいですか」
「んーじゃぁ私もお酒ー…いやいや冗談ですってそんな目で見ないで下さいって」
「おや、冗談に聞こえなかったのは気のせいでしょうかね?」

そんな怖い顔しないで下さいよ、少女がおどけた調子で言うと、男は苦笑しながらも、炬燵布団を軽く持ち上げ、彼女に席を勧める素振りを見せる。言葉はなかったが、その行動が全てを表していた。少女は導かれるがままに炬燵へと身を滑らせ、寒暖の差に小さく震える自身を両の腕で抱きしめる。矢張り、真夜中の寒さは堪えたらしい。

「未成年が何を仰います。ちょっとお待ちなさい、今すぐホットミルクでも入れて差し上げますからね」

そう言って「よっこらせ」と掛け声をつけながら席を立った本田の後ろ姿をぼんやりと見つめて見送った後、は視線を窓へと向ける。

確かに月が綺麗だった。満月。冬のほうが空気が澄んでいるのだろうか。夏の頃に見た時よりもしっかりとその存在が伝わるように感じられ、意識をそちらへ全て吸い寄せられてしまうかのように見つめ続ける。
眠りに落ちる時の感覚に似ている、とはふと思った。逆らうことの許されない力によって意識をぐっと引き寄せられる感覚。どんなに見ても空高くにあるそれは変わることはないはずなのに、少しずつあちらかこちらか、それはわからないが互いの距離が縮まってきている気がして、は息を飲んだ。
時々寝ることが無性に怖くなることがあるのだ。もしこの瞼が落ちる前の世界こそが夢の世界だったら。夢の中で寝たら一体どうなるのか。正しい現実に返るだけなのか、夢だと思っていたことが誤りなのか。そもそも正しいとは何なのだろうか。あの月が先程の恐怖感を思い出させてならなかった。

「そんな怖い顔して月を睨んでどうしたんです」
「…」

視線を窓に向けたまま、差し出されたマグカップを受け取る。嗜めるような視線を受けながらも声も出さずにただ窓ガラスの向こうの月を睨みつけているの様子に、彼は小さなため息を吐き、そして、

「さてはさん、寝るのが怖くなったのでしょう」
「!な、なんでそれ!本田さんエスパーですか?!」

彼女の心の内を的確に当てる。本当に驚いたようにこちらを見た少女に、本田はドッキリが成功したかのような悪戯っぽい笑みを浮かべながら、彼女の左斜め、先程まで自身が座っていた位置へと「よいしょ」という掛け声とともに腰を戻した。

「何もありませんよ。ただ、私も似たようなことが昔あったもので」
「似たような…こと…?」
「ええ、唐突に眠りに落ちることに不安を覚えることがあったんですよね。今自分がいるところが実は虚像だったらという不安が。瞼を再び開けた時に見慣れない場所にいたらどうしよう、知っているもの愛しているものたちが消えていたらどうしよう。そう思うと寝ることが怖くなってしまって、」

そこまで言って手に取ったお猪口の中身を口に流し入れる。

「怖くなってしまって、よく王さんに夜が明けるまでお話に付き合っていただきました」

遠い過去に思いを馳せているのだろう。懐かしむように目を細めて手元のお猪口を見つめる。そんな彼を見ては意外そうに言葉を零す。

「…本田さんでもそんなこと考えてたんですね」
「そうですよ?私も貴女も大した変わらないんですから」

柔和な笑みで己の見つめる男に、少女は心底安心したように息を吐き、

「それを聞いてちょっと安心しました」

ゆるゆると口角を上げて笑みを浮かべた。そんな彼女を見て、本田自身も胸をなでおろすような安堵感を感じていた。茶化すような口調では言ったものの、実際には内心彼女の反応が悪かったらどうしようかと思っていたのだ。この年の頃の子どもはいつの時代も難しい。そこまで考えて自分も年を取ったものだな、と妙な気分になる。
大方、眠るのが怖いのと、こんなことを考えているのが自分だけではないかと言う孤独感に苛まれていたに違いない。仮に自分と一緒だとしたら、だが。
あくまでも仮定でしかないことであったが、どこか影があった顔が安堵感に満ちているのが視界の端に入り、彼としてはただただホッとするだけであった。

「だから今日は、」

もし仮に、自分と似たようなこの少女の不安を取り除くことが出来るのなら。自分がして与えてもらった安心感を彼女に与えることが出来たのなら。

「夜が明けるまで一緒にお話をしましょう。私もさんもお互いにまだ知らないことはあるでしょ?」
「お話…ですか」
「そうですね。例えば…まぁ、何でもいいのですよ。さんが最近好きなものとか、興味のあることとか。若者の実情もリサーチしておきませんと、私としても会議でお顔を合わせる他国の若い皆さんに遅れを取ってもいられませんしね」

キョトンと男を見つめていた少女からくすくすと笑う声が漏れ、部屋の中に小さく響く。

「ああ、本田さん、おじいさんですもんね」
「…ほぉ、そんなことを仰るのはこの口ですか」

いひゃいいひゃい、非難を叫びながらも至極楽しそうな笑い声を上げるに男もつられたように破顔する。その手に触れている柔らかな頬は傷つくことも傷つけることも知らない滑らかなものであった。内に秘めたるものは外からは予想はつかない。仮に柔らかな外膜で己を守り、内包する棘で少女が己を傷つけているのであれば、出来るだけ傍にいてその痛みを緩和してあげたいと彼は思うのだった。自身がその昔受けた愛情を返すように。子が親から受け、その子が親となった時に自身の子へと受けた愛情を返すように。

これが母性というものなのか、そう彼が思ったのかは定かではないが、深夜に始まった二人だけの時間は徐々に盛り上がりを見せ始めたところである。