自分の三歩先を歩く男の背を見つめる。
もう何分も何分もその背だけを見つめて歩き続けていた。このままだと男の背に穴が出来るのではないだろうか、そうは思ったが、しかし見ることはやめなかった。
ただただ見つめ続ける。そこに言葉はない。あるのは彼女の視線と、彼が歌う異国の言葉の歌。ただそれだけ。

「おぃ、、」
「!な、なんですかっ」

耳に徐々に馴染み始めた歌が急に止まり、代わりに紡がれた己の名に驚きながらも辛うじて返事をする。緊張のあまり声が上ずってしまい、それをケタケタとおかしそうに笑われた。少女にとっては不服なことだが、男にとっては単純に面白かったらしい。

「そんな熱ーい視線送ってくれるのは嬉しいが、言いたいことがあるならはっきり言わねぇと」

俺だってわからねぇよ、そう言いながら3歩先にいる男が立ち止まり、振り返る。

「や、あの、う…!」

サディクが振り向くそぶりを見せた瞬間、は咄嗟に彼に背を向けた。
理由はただ一つ。彼が現在仮面をつけていないからだ。本人には大変失礼なことをしているという自覚はあるのだが、彼女はどうしても彼の素顔を直視することが出来なかった。
何故か怖くて何より恥ずかしくて、あの視線に耐えられそうになかった。仮面という二人の間の壁が唐突になくなってしまい、どこを見てどう話していいのかが急にわからなくなったのだ。だからこそ、今まで三歩後ろを歩いていたし、今は咄嗟に視線を逸らしてしまった。

「サディクさんの、か、仮面は…その、どうしたのかと」

ごちゃごちゃになった頭が精一杯に形にして唯一吐露出来た言葉。視線は自身のローファーを見つめ続け、まるでそれが対話相手であるように言葉を投げかける。それに見たサディクは不思議そうな顔をした後、

「ん、あれか?お前んち歩く時には外してねぇと、逆に危ねぇからねぃ」

と至極当たり前な返答を返した。
彼の言葉に少女は小さく息を吐き、なるほどと納得する。確かに格好良い仮面ではあるが、この国でするには些か問題があるのも事実だ。この国の風習を考えると、本人にその気がなくとも多大な誤解と偏見を撒き散らしてしまうのだ。例えば変質者であるとか、強盗の類であるとか。祭りなどでもない限り仮面など見ない国なのだから。いや、祭りでもあのような仮面は流石にないだろうか。

「そ、それは確かにそうですね…」
「んだろ?俺も悲しいっちゃー悲しいんだがよ」
「はぁ…」
「何よりあれがねぇからってがこっち見てくんねぇのが悲しくってなぁ」

軽い口調で言われたそれは少女の心を鷲掴みにする。常より煩く自己主張をしている心臓が更に大きく鳴り出した。

「だからよ、いい加減こっち見てくんねぇと」

無理矢理向かせるぜぇ?
見つめ続けていた足元が急に暗くなったことに驚いて少女が声の方へ顔を向けると、三歩の距離などとうに埋めてしまったサディクと目があった。否、覗き込むように己の顔に近づいてくるその目に捕らえられてしまった。体中が心臓になってしまったように酷く大きな鼓動が自分自身を包み込んでいる。逸らしたいのに逸らせない。逃げたいのに逃げられない。自分の顔が相手の眼球に映りこんでしまうのではないか、そのように思えるような距離までどんどんと顔が近づいてくる。

瞬きすら忘れたことで生理的に浮かんできた涙が溢れそうになった瞬間、肩に触れられた大きな手に体中の熱がそこへ集まる気がしたが、逆にそのことが彼女の意識を現実へと引き戻した。「ひっ!」などと声にならぬ声を出して男の手を払いのけ、その横を足を縺れさせながら走り逃げる。
それを見てまた男は面白そうにケタケタと笑うのだ。段々と遠ざかる笑い声には恥ずかしさ半分、苛立ち半分、もう何が何だかわからぬと真っ赤になっているであろう己の両頬を両手で押さえながら、走り続ける。


もしも。もしもあのまま彼の顔が近づいてきたら。一瞬鼻を掠めた何とも言えぬ甘美な匂いが更に濃く匂ってきたら。それが自分を包み込んだら。そのような不埒なことを考えてしまった自分を叱咤しながら、縺れ転びつ居候先への道を必死に駆けていった。