膨れっ面をつんつんと人差し指で突付く。
数度の後、ボフッという何とも間抜けな音と共に空気が抜け、限界までその表面積を広げていた頬の皮は急速に萎み、元の姿へと戻る。羞恥からか、目の前の少女の頬は些か赤らんでいるようにギルベルトには思えた。
が、視線を少し上へ上げると彼女の目は相変わらず怒気を孕んでいた。
静かに、しかし隠すことなく訴えられる怒り。ギルベルトにとってあくまでそれは可愛らしい類のものであった。子猫の威嚇を見ているような、そんな微笑ましい気さえしたが、それを口に出してしまっては更に状況は悪化するだけだ。
彼は思ったこと全て飲み込み、代わりに別の言葉を声に乗せる。

「ごめんって」
「…」
「なぁ、俺が悪かった。反省してる」

本当に悪気はなかった、そう言葉を付け足しながらギルベルトは同じソファーの端に腰掛けているから視線を外すことなく見つめ続ける。
ギシリ、とソファが悲鳴を上げる。二人掛けのソファーの端と端、まるで間に大きな見えない壁でもあるかのように互いの距離を離して腰掛ける。手を伸ばせば互いに届くどころか抱きしめられる距離であろうに、近づくことは許されない空気があった。
何て惨めな。彼はそう思ったが、聞き入れられぬ謝罪をこれ以上口にしたところで、謝罪の気持ちが相手へと伝わる訳でもないし、何よりその重みがなくなるだけだ。男はやがて口を噤み、そして敷き詰められた絨毯と己の磨かれた靴へと視線を移し、それらをただじっと見つめ続ける。






「…本当に謝る気、ありますか」

それまでどれだけ話しかけても目も合わせないどころか反応すらしなかったが喋った。
ギルベルトは弾かれたように顔を上げ、彼女の横顔を見つめる。

「あ、あるある!すごくある!」

他者が見ていたら大笑いするであろう食いつき方であった。が、ギルベルトはそれだけ必死だった。今まで何も反応しなかったが口をきいてきたのだ。このチャンスを逃せばまたあの気まずい雰囲気に逆戻り、それどころか更に状況は悪化して彼女の保護者の介入の元、暫く会うことはおろか、声を聞くことすら叶わなくなりそうだからだ。

「言葉だけじゃ信じられないんで、お願い、聞いてもらってもいいですか」

そんな可愛いこと言われたら断れるわけがない!
声に出したい思いを必死に押さえ、カクカクと頷くだけで答える。大げさすぎるその動作に彼の衝動全てが押し込まれていることにが気づいているかどうか、それは本人にしかわからないことではあるが、小さな溜息の後、彼女は蚊の鳴くようなか細い声で提案をする。

「…私、クーヘンが食べたいです」
「わ、わかった!すぐに用意する!」
「ギルベルトさんが作ったやつじゃなきゃ嫌ですから」

さり気なく難題を押し付けられた気がするが、この際気になどしてられない。
彼は壊れた人形のように首を上下に振り、提案を受け入れることを示す。

「あと、たまにはご自分で部屋の掃除をして下さい。ルートヴィッヒさんが可哀想です」
「あれはヴェストが勝手に…」
「勝手に何か?」

その気迫に負け、「何でもないです…はい…」と弱弱しく答える。
その後もいくつも続けられる提案の数々。「ローデリヒさんを苛めないで下さい」から始まり、「フランシスお兄さんやアントーニョさんと公衆の前で下品な話はやめてください」や、「たまには自分で起きて下さい」や、果ては「ブログの更新する前にやることがあるでしょう」などなどなどなど。日頃彼女が思っていることの全てをこの機会を逃すまいと吐き出すかのように紡がれる言葉の数々。そこには八橋に包むなどという気遣いは一切なく、一言彼女が告げる度に地味にギルベルトの心を抉っていった。

「ああわかった、わかったから!何でもするから」

根負けしたかのようにげんなりとするギルベルトの様子に、は喋り続けて閉じることのなかった口をにこりと横にひき、いつぶりかの笑顔を彼に向けた。場の空気が和らいでいくのが、見えない壁が崩れていくのがどちらにも手を取る様にわかる。

「あと、」

終わりに思えた提案の数々。それに付け足す言葉を述べたきり、は押し黙った。
言葉を選んでいるような考え抜いているようなその様子にギルベルト不思議そうに彼女を見つめながらも、続けられる言葉を静かに待った。

「…たまには私を頼って下さい」

彼女がそう言った瞬間、ギルベルトはまるで魔法にでもかかったかのように動きを止める。瞬きすら呼吸すら叶わぬ衝撃。それほどの重みをその言葉は孕んでいた。

「人間ですけど、というかここの世界の人間ではないかもしれないですけど、確かにあなたたちとはちょっと違うかもしれないけど、それでも私は皆さんと一緒にいます。隣にいます。一緒の時間を"生きている"んです」

いつか消えるのかもしれない。それは天寿を全うするということなのか、元の世界へ帰るということなのか。それは話している本人にもわからないことではあった。しかし、それでも今は一緒にいるのだ。だったら自分を見る度にそんな悲しい顔をしないでほしい。悲しい気持ちを隠さないで欲しい。本人たちは隠しているつもりでも、彼女には分かりきっていることなのだ。彼らが、殊、一度消えた国家と言ってもいいであろう目の前の彼が「消えること」への恐怖を抱くことは。

「私、"礼儀正しい生真面目な日本人"なので、お別れはちゃんと言いに来ますよ」
「出来れば俺は別れなんてもの、ないほうがいいんだがなぁ…」
「それだけはお約束出来ませんね」
「そこはせめて今だけでも嘘ついてもいいじゃねぇか」

それを聞いて申し訳なさそうに「スイマセン」と呟いて苦笑したの手をギルベルトは力いっぱい握った。せめて今この時だけは離れられぬように、と。
込められた力は彼の想いの強さなのだったのだろうか。離すまいと握られた手を同じように握り返したにギルベルトは何も言わず、ただただ優しげな笑みを浮かべるだけであった。