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遠くから自分を呼ぶ声がする。そう思ったが体は思ったようには動いてくれず、全身をだらりと床に預けたまま耳だけでその声の行方を追っていた。次第に声と足音が自分に近づくのを感じ、視線のみをそちらへと向ける。ゆっくり開けたにも関わらず老朽化のためか些か大きな音を立てて開いた戸の向こうに逆光のシルエットが見え、己を見下ろしながら溜息をついたその姿を見て、何故だか胸がぎゅっと締め付けられる思いがした。 「さん、ご飯の用意が…」 「おかあさ…」 彼女は自分で何を言ったのかを考えるより先に、手は口を押さえていた。自分は何を言った?その単語はどういう意味が理解しようとするが、頭は思うように機能せず、今出来ることと言えば、息をすることすらも阻止するように、口からそれ以上言の葉が漏れるのを恐れるように自身の口を両手で塞ぐだけであった。 「さん」 「あ、本田さん、ごめ、ごめんなさ…!」 どうしてこんなにも謝っているのか、それは彼女自身にも分からなかった。そして目から溢れてくる涙の意味も理解出来ない。彼を困らせてはいけないのに、彼に迷惑をかけてはいけないのに。この外見と中身の年齢が一致していない青年はそれはそれは長い時を生きていた、まさに生きた歴史なのだ。自分などというちっぽけな存在など、彼の前では塵に過ぎず、また、このようなどうしようもないことで煩わせられるほどに近しい人間でもなかった。そう、このようなちっぽけな私のちっぽけな感情などで。 「泣きたかったら泣けばいいんですよ」 「そんな、私、泣きたいことなんて何も、」 そう何もない、は自分に言い聞かせるように何度も繰り返す。 何も不満なんてない。毎日同じ屋根の下に一緒に居てくれる本田さんがいて、一緒に笑ってくれる彼の友人たちがいて、雨風を凌げて、彼の作る美味しいご飯が食べられて。何も不満なんてないはずなのに。いつから自分はこんなにも我侭になってしまったのだろう。 「お家が恋しいのでしょう?」 「え…お家?何を言ってるんですか、本田さん。私の家はここで…」 ひゅっと息を飲む。ここは確かに今は自分が「住まう」家だが、本来の自分の家じゃない。自分で言った言葉に突き動かされるように、はがばりと体を起こし、その場で膝を抱えて座る。先ほどから喉の辺りで物が詰まっているかのような不快感に苛々が募るばかりだ。自分で何を考えて、何を思っているのか分からない。抱え込んだ膝にぎゅっと爪を食い込ませ、唇を噛んでその詰まりが目の前の青年に露見してしまわないように必死に丸く縮こまりる。そんな彼女の前に静かに影がさす。 「さぁ、誰もいらっしゃいませんから」 その一言ののち、正面から抱きしめられた。とんとんと一定のリズムで優しく背を叩く存在に、は彼の肩に顔を埋めながら、心の枷を取り外すかのように静かに涙を流す。一粒また一粒と流れ落ちる涙。 無意識の内に後ろに回していた手が徐々に本田の着物を握り締め、その存在を逃すまいと縋るように掴む。どちらも決して喋ることなく、ただ二人の心音を交換し合うだけの時間を過ごす。着物を掴んだ手の痛さ、布越しに伝わる体温。それだけが今の全てであった。抱きすくめられた彼女の頭にかかる息が一瞬苦しさを帯び、そして室内であるのに頭上から冷たい雨が降ったような気がしたのを彼女は気のせいであると思いたかった。 |