|
重い。沈黙が重い。そして息苦しい。手にしていた雑誌で己の顔を隠しながら、酸素を奪われた魚のように口をパクパクさせてみるが、その息苦しさに変化が訪れることは決してない。寧ろ悪化してる気さえ、今の彼女にはしていた。 まるでこの部屋だけ空気が薄い高山地帯と交換されたようだ。この何とも居心地の悪い部屋にはかれこれ数刻ほど閉じ込められていた。否―――閉じ込められていたという表現は、彼女自身がこの部屋にいると自ら宣言をしていたのだから些かおかしいかもしれない。しかし、そうは言ってもこの状態が軟禁に近いとが感じるのは同じ部屋のあるものが原因であった。部屋をぐるりと見回して目に付く調度品、ソファー、絨毯、窓から差し込む光とそれにきらめく硝子―――が原因ではなく、ドアの前で腕を組みながら姿勢良く立ち、こちらを見つめ続けるルートヴィッヒであった。 「あの、ルートヴィッヒさん…」 「なんだ、」 「あー…いえ、何でもないです、はい…」 言えなかった。流石の彼女でも、「貴方のせいで部屋の空気が非常に重苦しいです。息苦しいです。私の酸素を返して」とは言えなかった。 護衛なんて大層なもの、ただの一般人である自分には不必要なのに。そうは心の中で盛大に溜息をつく。 何故現在進行形で何やら大切な話し合いをしているらしい我が祖国もイタリア人も護衛をつけるなどと言い出すのか。彼女の心の中に浮かんでは消え、そしてまた浮かびと繰り返す嘆きに答えるものは誰一人としていない。 「」 「え、うあ、はい!」 思考の海に沈んでいた彼女に突然投げかけられた声。全く予想をしていなかった己を呼ぶ声には驚き、声が裏返る。そんな彼女の様子を見てか、ルートヴィッヒは申し訳なさそうに眉を下げ、謝罪を口にした。 「…すまん」 「い、いえ…」 気まずい。矢張り気まずい。口には出さずとも、ルートヴィッヒとは互いに同じことを思い、そしてこの空気を変えたいと切に願っていた。一体どうすればいいのか。文字通り顔に書いてあるという言葉が似合う表情では絨毯を、ルートヴィッヒは天井を見つめる。他者から見たら非常に滑稽な光景であったろうが、今は二人しかいないこの密室で二人を救う者も、二人を笑う者もいなかった。 沈黙が空間を支配する。ただの沈黙ではない。一級の居心地の悪さを伴った沈黙であった。少女はぐるぐると打開策を考える中で、「彼にも座ってもらった方がまだマシになるのでは」と思いつく。 「あ、あの!」 「な、なんだ!」 気まずさに我慢出来なくなったらしい少女は後も考えずに口を開く。その唐突に上げられた声に今度はルートヴィッヒが驚く番であった。 声を上げた手前何か続けなくてはとは開けたままであった口をパクパクと動かす。が、先程のように雑誌がそれを隠すようなことはなかった。 ただ一言「良かったら隣の席へどうぞ」、そう告げるだけなのに何故こんなに心臓がドキドキというのか彼女には理解出来なかった。自分の物なのに全く言うことをきかぬ心の臓は、時間を経るごとに徐々に大きな音になり、自己主張し続けるだけだ。聴覚を自分の心臓が鳴り続ける音に支配されているのを少女は感じながら、言わなくては、ただそれだけを思って息を思いっきり吸い込み、 「た、立ちっぱなしも何なので良かったら…その、隣に座っていただけると…」 「…い、いや、それには及ばん。俺は今はお前の護衛なのだからな」 ありったけの気合を動員して声に乗せた提案を、男はあっさりと断った。ここまでスッパリと切り捨てたれると少女にはまさに取り付く島もない。 「あ、はい。失礼しました」 何が悪かったのか。一先ず謝罪を声に出す。日本人のありがちな癖を意識せずとも咄嗟に行う。 そんなこを気にするよりも兎に角打開策を見出さなくては、とまた必死に彼女は考えに考える。こんな必死に考えるなんてこと、テストでもしたことがあっただろうか、などと彼女はふと思ったが、どうにかこうにかはやがて一つの作戦へと辿り着く。 「じゃぁ、ルートヴィッヒさん」 「なんだ」 今度の返事は微妙な間も驚きもなかった。 しかし、その眉には若干皺が寄り、不審そうな目が彼女を見下ろす。とくとくと先よりも落ち着き始めた心の緊張感を彼女は一瞬感じたが、今度は迷いなく声を出す。 「その、護衛ってことなんですが、」 「あぁ」 「今日だけは私からのお願い、ってことで聞いていただけませんか?」 「あの、ぶっちゃけ落ち着かないんで…」、そうが蚊の鳴くような声で申し訳なさそうに付け足すと、ルートヴィッヒはハッとした顔をし、そして咳払いを一つする。 「そ、それは気づかなくて悪かった。そうだな。護衛と言ってもを気まずくさせるのは俺としても不本意だし。お前の言葉に甘えようか」 肯定の言葉とゆっくりと己に近づいてくる男の姿に、少女の表情はパァと明るくなる。 男の長い足で、一歩二歩そして三歩。縮められていく距離感。あっという間に少女の目の前に男は現れ、そして隣へと腰掛ける。こんなにも小さな距離を縮めるためだけにこんなにも手に汗を握っていたのか。彼女は心の中で苦笑する。 刹那、体格差か男が座ったことでと反対側の生地が大きく沈み込み、よろりとルートヴィッヒ側へと傾く。そんな彼女の肩を男は優しく受け止め、礼を言いながら少女は男と足元を見つめる。先ほどよりも近い距離とより鮮明に感じられる相手の存在感。その安心感に、意識せずとも頬はゆるゆると緩み、自然と笑みが浮かんだ。 「そうですよそうですよ!ルートヴィッヒさん、もっと気楽にいきましょうよー」 今までの苦々しい表情はどこへやら。そう笑いながら話しかけるに彼は、「守られてる身のお前が言える立場か」と彼女の頭を勢いよく撫で回す。「ぎゃぁ!髪がぐしゃぐしゃに…!」などと色気も皆無の叫び声を上げながらルートヴィッヒを非難する。 そして、カチリと互いの目が合ったことでどちらとなく声を上げて笑い出し、二人の声は閉ざされた扉の向こう、広く長い廊下へと軽やかな音楽のように小さく響いていった。 |