怖い、なんて言葉は出てこない。心の何処にもありはしない。
ただが抱いている感情は一つ、確信のみであった。








「ねぇ、。君はどうして僕から逃げないの?」
「逃げない、と言いますと…?」

まさに今のこの状況のことだろうか、とは一人心中で呟く。
背には壁、目の前には長いマフラーをゆらゆらと揺らす男が一人。そういえばこの人、夏でもこのマフラーをしてるんだろうか。暑くないのかな。幸い今日は暑くも寒くもない快適な気温であるので、ファッションと言われればそうかと言って割り切れるのだが。

そもそも当初はマフラーの心配などしてはいなかった。喉の渇きを覚えたためにこっそり混ざっていた会議を抜け出し、飲み物でも取りにこようと思ってこの部屋へ来たのに、気づいたら壁と目の前の彼に挟まれていたのだ。

手に持っていたはずのカップは先程彼の登場に驚くあまり床に落としてしまった。
私物ではないため割れていないかが一番心配であったが、この部屋の無駄に高そうな絨毯がきちんと落下の衝撃を和らげてくれたらしい。カップの無事を確認した彼女の心は、安堵ののち即座にカップの中を満たしていたコーヒーがじわじわと染みこんでゆく絨毯の染みへと憂慮は移って行く。

「イヴァンさん、どうして私に怖いかなんて聞くんですか」
「だって、皆、僕の側にいようとしないじゃないか。ライヴィスたちなんてあんな怯えようだよ?」

ニコニコニコニコ。何も知らないものであれば警戒心すら抱かないような笑みを浮かべながらイヴァンは答える。
イヴァンは決して彼らのことが嫌いではなかった。しかし、心のどこかで互いの関係性に長年違和感を感じていたのは事実であった。暫くはマイペースに過ごすことでそれも忘れており、いや、寧ろ無理矢理忘れることで彼らともそれ以外の国との関係を維持していた。だが、それをこの異世界からの少女がぶち壊した。自分たちが国でいることの苦痛も何も知らずに庇護される人間の少女。自分たちの過去を知らずに無意識に、無遠慮に立ち入ってくる少女。長年イヴァンが心の中で無意識に言い聞かせて作り上げてきた彼の心へ土足へ進入して抱く必要のなかった疑問をばら撒き、そして彼の心の壁をは見事にぶち壊した。このことにイヴァンは苛立ちを覚えていた。

どこかでこの少女に思い知らせてやりたいと思ったのだろうか。
気づくことなく、自分が無視していればいつまでも平和でいられたであろう自分の心を返して欲しいと。

「ねぇ、イヴァンさん」

つとは彼を呼ぶ。

「歩み寄り、って言葉があるんです。ご存知ですか」
「歩み寄り?」

イヴァンはいつもの笑顔を崩さずに首をこてりと右へ傾け向ける。
何を言い出すのかと思えば前後の話が通じない話をは始める。表向き感情には出てはいないが、イヴァンの苛立ちを増徴させるのには十分な一言であった。

「そうです歩み寄り」
「…」
「イヴァンさん、さっきの答えなんですけど、私は貴方のことを怖いだなんて思ったこと、こちらに来てから一回もないんですよ」
「へぇ…そう」

強がりなのか、そうではないのか。真意は見えないの発言にイヴァンはただ返事を返す。

「で、ですね。思ったんですけど、本当は私が貴方を怖がってるかじゃなくて、貴方が私が怖いって仰りたいんじゃないんですか?」

笑顔で告げる少女の言葉にイヴァンは息を飲む。生意気だ、無遠慮だと思い続けていたが、ここまで自分の神経を逆なでることをよくも言えたものだ。しかし、それと同時にこの少女に畏怖を感じ始めていることに彼は気づいてしまった。追い詰めていたはずの壁から少しずつ離れ、自分が後退していることに気づいたのはその後。

「どうしたんですか、イヴァンさん」
「…」
「あの、」
!」

一歩、また一歩とはイヴァンへと近づいてゆく。止めようと本人の意思に反して思わずの名を叫んでしまったが、彼女はそれに怯むことはない。イヴァンが一歩下がる度、彼女は一歩彼へと近づく。コンパスの差で縮まることはないように思えたこの距離感は、急に駆け出したによって一気に距離を縮められる。

「イヴァンさん、」

は駆け出した勢いそのままにイヴァンのマフラーへと手を伸ばす。そして遠慮など全くせずに力の限りに引っ張る。体格差があるとはいえ、流石にイヴァンも下からの力には逆らえず、ぐいと首を彼女の頭上近くまで近づけさせられる。

「ねぇイヴァンさん、私のこと、怖いですか?」

上目で伺う彼女の目はどこか楽しそうだ。
ああ、そうだ。これが彼女の隣にいて苛々する理由でもあり、ホッとする理由でもあるのだ。そうイヴァンは心の中でごちる。

「怖い?まさか、僕が君にそんなこと思うなんて」

そうそんなことを思うことなんてないんだ。これまでも。そしてこれからも。
自然に緩む己の頬を気づかぬフリをしながら、男は目の前の少女を抱き寄せる。いつも浮かべる笑みとは違ったものに少女が気づくことはなく、ナビはただ、視界いっぱいにイヴァンのマフラーが映ったあと、目を瞑り、満足そうな笑みを浮かべながらただただ彼に体を預けるのみであった。