「貴方たちの抱く不安感はまだ拭えませんか」






姿は見えないものの襖の向こうにいるであろう相手はわかっていた。その上で彼へ向けて言葉を投げかける。それに答える声はすぐには返ってこなかったが、微かに息を飲むような気配がったのは確かだ。

「まだ、貴方たちが私のことを不安に思う気持ちは変わりませんか」
「…、何を」
「自分でもわかってます。だって私は異質だから」

自転車に乗った少女が急に部屋に現れまして、などという説明で話を切り出した祖国の姿を思い出す。あの時に目の前にいたイタリア人とドイツ人の顔は今まで彼女が見たこともないような、まさに鳩が豆鉄砲を食らったような顔だ。あれは今だから言えるが相当滑稽な顔であったとは一人微笑む。

「俺たちはそんなこと一言もっ」
「戻れる気配がありません。私はここで生きていくにしてもどう活路を見出せばいいのか」
「それなら最初の会議で話しただろう。のことは俺たち国家が協力して保護を…」
「貴方たち国家のことをこちらの世界の方がどう認識しているか知りません。しかし、私は貴方たちと共に居過ぎた。ある種の方たちにとっては大変良い人質になるでしょう。つまり貴方たちはお荷物を背負い込んでしまったのです」

私というお荷物を、そう続けたはどこか嘲笑気味に口元を歪め、畳の上に投げ出した足の上に置かれた己の手元を見つめる。
声は震えてはいなかった。しかし、彼女の手はどこか寒さに耐えるかのように小さく震え、それを抑えようと必死に自分で自分の手を握りしめる。
背を預けていた襖がガタリと音を立てたので背を離し戸を引く音に惹かれるように振り返ると、いつも以上に眉間に皺を寄せたルートヴィッヒが彼女を見下ろしていた。

「…お前はそうやって自分のことを考えていたのか」

降り注ぐ声はどこか無機質であった。いや、無機質であろうとするような気配さえ感じられた。これが彼なりの、ルートヴィッヒなりの今出来る最大の優しさなのかもしれない。

「ええ。私だって何も考えなしにこの家に閉じこもっていた訳でもないんですよ。私が外に出たいと言って何か問題が起きたらそれは貴方たちに降りかかりますので。学校だって…」

きゅっとは目を瞑る。段々と速度が増してきた口調を落ち着かせるように二三度咳をし、息を吐く。

「違う…!私はっ…私はこんなことを貴方に言いたい訳じゃないのに…!」
、おい!?」
「どうしていいのかわからないんです!不安なんです!誰も私を知らないことも、私が、私が誰も知らないことも!」

まるで塞き止められていたダムが決壊するかのように、彼女は思いを露見する。
その気はなくとも今の今まで気付かぬ内に色々と溜め込んでいたのであろう。瞑った目からポロポロと涙を零しながら駄々っ子のように頭を振り、耳を塞ぐ。彼の声を、また、外界の音も光を全て遮断し自分だけの殻に閉じこもるように全てを拒絶するかのように。

どうしてだか、ルートヴィッヒにはその光景が酷く美しいものに感じられた。直情的な不安に耐えられずに押しつぶされそうになる少女。彼女は庇護すべき対象だ。大切な友人の食客でもあり、最近では自身とも交友の多くなってきたその少女。そして、ただの人の子であり、弱い存在。
頭ではそうわかっていても、その甘美なる光景に一瞬息を飲み、そして、そんな自分がいたことに驚き心の中で叱咤する。しかし、彼女の流す涙は、一種の宝石のようであったことだけは彼は心のどこかで納得していた。

「それなら、これから知っていけばいい」

先の背徳的な思考を振り切るかのように彼がの頬に手に添えると、触れた宝石はただの水へと還る。触れられたことに驚いたのか、頭を振っていた彼女の動きがぴたと止まり、いつの間にか隣へと腰を下ろしていた男を見る。

「これから…?」
「俺ものことは正直なところよくは知らない部分も多い。好きなものは何か。嫌いなものは何か。前の世界では何をしていたのか、俺たちのことをどう思っているのか。俺は全然お前を知らないんだ。それはだって同じだろう?」
「私も…同じ…」

まるで聞き慣れない言葉でも耳にしたかのように目を点にして、はルートヴィッヒを見つめる。「そう、同じだ。だからこれから仲良くなって行くことが出来る。出来れば俺はそう望んでいる」彼がそう続けると、暗澹たる色に包まれていた彼女の瞳に光が戻り、いつもの色となる。自分で自分の存在を確かめるかのようには自身の手をぎゅっと握り、その感触を何度も確かめる。

「これから、知る、」
「ほら、そんなに握りこむと傷が深くなるぞ」

がふと自身の手を見ると、気づかぬ内に強く握りこんでいたらしく、爪が食い込み薄皮が切れて真紅の液体が出ていた。彼女の手をゆっくり解きながらルートヴィッヒは自身の手と絡めていく。温かなぬくもり。その手を彼女はただじっと見つめる。

この手から伝わるぬくもりは彼も彼女も何も変わらないものだ。なのに何故彼らは国なのだろう。そして、何故この人も祖国も他の国も皆して一様に自分に優しいのか、それがには理解出来なかった。ただの異質である自分をそこまでして守ってくれることが。
二人で握った手の上には涙の雨を降らせる。それから暫く誰も何も声にすることもなかったが、それでも良いのだと誰ともなく言ってくれているような気が彼女にはしていた。