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「ローデリヒさんのピアノは、何というか子守唄のようですねぇ…」 「おや、も意外に博識だったんですね」 連弾用の椅子に二人で腰掛け、静かにピアノの音へと耳を傾けている最中の会話であった。思わず口から出てしまった彼女の独り言にローデリヒは律儀に答えたが、上手く噛みあってない気がしたが怪訝な顔をしながら彼を見る。それに答えるかのようにローデリヒは譜面台に置かれていた楽譜をパタリと閉じ、彼は「ご覧なさい」と言いながら表紙を彼女へと差し出した。 「…あの、私、文字を読むのは」 「あぁ、そうでしたね。でもここくらいは読めるんじゃありません?」 そう言って彼が指差した部分を見ると、なるほど見慣れた人名がそこにはあった。 「モーツァルト?」 「ええそうです。「モーツァルトの子守唄」、その名前でこの曲は知られていますね」 ローデリヒは手にしていた楽譜をおもむろに捲り始める。手にしたそれは年季が入ったものなのか、古書の持つ独特の匂いがページを捲る度にの方へ漂ってくる。 なるほど彼女が子守唄のようだと評したことに過ちはなかったらしい。曲自体は元より名前はどこかで聞き覚えがあったはずだ、そう思っていた彼女に、「でもですね、」とローデリヒは言葉をかけ、彼女の思考を中断させる。 「本当はこれ、モーツァルトの曲じゃないんです」 「え、そうなんですか。私が知ってるのは彼の名前でなんですが…」 「その辺は諸説ありますので正確にはお答えしかねますが、もしフリース自身がこの事実を知ったらどう思うでしょうね」 真実を言うだけ言って満足したのか、ローデリヒは口を閉ざしへと向けていた視線をピアノへと戻した。そして、譜面を譜面台に置き、件の曲の演奏を再開する。 鍵盤の上でローデリヒの指が踊る。左手と右手のダンス。鍵盤上の舞踏会。そう言ってもいいような滑らかなそして優雅さのある動きが音を紡ぐ。 その軽やかに動く彼の手に目を奪われていたはずなのに、この曲の名前を子守唄とつけた人は実はすごいんじゃないか、などとは思いながら目を瞑る。 遠い昔、確かにどこかでこの曲を聞いた気がするがそれは何時なのか何処なのか思い出せない。しかし、懐かさを含んだ淡い想いが波となって彼女へと静かに押し寄せ、そして引いていく。引いてゆく波に身を任せるかのように、意識を預け、音の海の中へと静かには沈んでゆく。 ただ一人のためだけに、ただ彼女のためだけに開かれた演奏会。 室内に響くのは小さな寝息。そしてそれを慈しむかのように奏でられる子守唄のみであった。 |