全て夢だったのかもしれない。
昨日食べた夕飯も、先週本田さんと一緒に見た映画のことも、何よりこの世界に降り立ったことも全て夢だったのかもしれない。そう考えると何故か悲しくなってきて、は自分の頬に冷たい何かが伝っているのに気づいた。ああもしかしなくても自分は泣いているのだろうか。そう思ったが、しかし次の瞬間には、頭上からまるでバケツをひっくり返したかのようにも降り注がれた水のおかげで、頬だけではなく頭から足の先まで水浸しになっていた自分に気づいた。不思議と寒さは感じなかったが、何故か体の前面は誰かに包み込まれているかのように温かい。そんな。そんな馬鹿なことがあってたまるか。



何かに急かされるかのように目を開ける。急に光を取り込んだためか、一瞬最大に開いたそれは瞬時に細められる。目が思うように開かない。そんな中で最初に何とか認識できたのは、憎たらしいほどに青い空と独特のイントネーションで己を呼ぶ何者かの姿だった。

ちゃん!ちゃん、大丈夫か!?」
「アントーニョさ、ん…」

ぼんやりとした意識の中でその人物の名前を声に乗せる。「なんや?」と気さくな優しげな笑みと言葉が耳から入ってきて、は気づかぬ内に安堵の息をもらした。

「目ぇ覚ましてほんま良かったわ。自分、畑で倒れとったんやで?」
「え。ああ、そういえば…」

アントーニョの畑仕事を手伝いに行く際に被れと言われていた帽子を何故かロヴィーノに奪われたため、仕方なくそのままの姿で外にいたことをはまるで他人事のように思い出した。彼女は、件のロヴィーノを探しながら畑の横の道を彷徨っていた。別に寂しかったからではない。アントーニョの元へ戻ろうにも道が分からないからだ。
いっそのことどこか木陰の下で探してもらえるのを待っていた方が賢明かもしれないと思いながらも、見知らぬ土地で突き放された焦燥感からか、乾きを訴える喉も痛みを訴える頭も無視してがむしゃらに歩き回った。日の光がじりじりと己を焼き尽くそうとしている。そう思いながら空を仰いだ瞬間から今のこの状態まで彼女には記憶が全くなかった。

「呼んでもうんともすんとも言わへんし、咄嗟に水かけてもうたわ。堪忍な」
「ああ、だから私」

夢の中で泣いていると感じた感覚はこれだったのか、とは己の頬や頭についた水を拭いながら何だかおかしくなってきて、くすくすと笑い始めた。次第にその笑いは小さなものから大きなものへと変化していく。今の状態はまさに爆笑の域だ。そんな彼女をみたアントーニョが「何笑っとるん?」と不思議そうな顔をして覗き込んできたので、息も絶え絶えになりながら彼に返答をした。

「あの…ははっ…私夢で泣いてるのかと思って、でも気づいたら体中びしょびしょで、目を開けたらアントーニョさんがいるから何かすごく安心して、安心した途端に何か気が緩んで笑っちゃったんです、はははっ…ひーおかしい…苦しっ…」

ここまでくると本格的にツボに嵌ってしまって抜け出せなくなる。
自分だって笑いたくて笑ってる訳ではない。しかし自分でも自分が止められないのだ。これが安堵の笑みなどであったらさぞ少女らしい、儚げな印象を与えられたかもしれない。が、彼女がしているのは爆笑だ。いっそ清清しいまでのその馬鹿笑い具合に流石のアントーニョもついてはいけないようで、きょとんとしながらも体をよじって笑い続けるの背を支える。

「何や不思議な子やなぁ」
「ははっ…あ、苦しっい…や、もう自分でも…訳がわからなっ…!」

笑いながら喋ろうとする度に咽る。そんなの背中を優しく撫でるアントーニョに、は気恥ずかしさを覚え始め、何とか落ち着こうと深呼吸を試みた。
ややあって何とかが落ち着いた頃合いを見計らったのか、彼がどこか遠くを見つめながら彼女に言葉を投げかける。

「とりあえずちゃん、着替えてこよ。なぁ、そうせんと」
「は、はい。そうですね…ははっ」

ほんまおもろい子やなぁ、そう言いながら水濡れのの手を取って起こすアントーニョは、「そんで、ロヴィーノはどうしたん?」と尋ねる。が素直にロヴィーノの行方が知れないことと、自分の現状との関係について答え、それに怒ったアントーニョが握っていたの手を離してロヴィーノの名前を叫びながら何処かへ駆けて行くまで、がそんなアントーニョを慌てて追いかけようとするまであと2分少々。